旗本てんつくのブログ

いろいろメモ書き的ななにかです。ブログとかよくわからないので、無作法あったらすいません。

地球がまるいとかのはなし

多くの人にとって、地球が球体であることの証拠は、衛星などからの写真だろうか
確かに、写真はとても分かりやすい資料ではあると思うが
フラットアーサーはその証拠能力を否定してくるのでめんどくさい。
南極の白夜もフラットアースの反証になってるはずだが
「南極の白夜は捏造だ」ってな具合にね
 

でもアタリマエだが地球はNASAが写真を撮るずっと前から球体で

人類がそれを知っていたのもずーっと前からです。
 
なんでそれを知っていたかといえば、宇宙から写真を撮ったからではないですし
天体の運行の仕方を考えてなんやかんやした結果だからです
 
いい歳こいた大人がこんな話を信じるのは自己責任として
判断がいたらない子供が、信じてしまうのはいささかいたたまれないので
天体の運行を基にした判りやすい説明をできないかと考えていたのですがこれが正直めんどくさい。

フラットアースモデル2



というわけで、春分の日モデルです。

春分の日に太陽が赤道上空を北極点を24時間で一周する。12時間で半周。6時間で4分の一周で90度。フラットアースの主張のモデルとして間違っているとは思えないのですが。

球体説にとってもこれ自体はとりわけおかしな図と言うわけではなく、ちょうど、正距方位図法で天頂に太陽が見える位置を示した図になっていますね。

球体ならば、もとの状態を考えて計算する必要がありますが、平面なら直接、方角や距離が測れるはずです。

それで、このとおり観測上の方角と、実際の太陽の位置がずれるのは平たく言えばフラットアースのモデルが間違っているからです。

そもそもこの地図、平面だと6時の太陽を真東に見られる位置がないのですよ。

 

前回は、観測できる事実という趣旨で日本だけに注視してみましたが

春分の日秋分の日)は、ざっくり言うと昼と夜の長さが同じで、太陽が真東から登り、真西に沈みます。これは日本だけではなく、世界中どこでもそうなります。
というわけでオーストラリアのこの辺でも同じことをやると、観測できる方向とフラットアース上の太陽の位置が60度くらいずれます。こういう矛盾はフラットアーサーはどう解消しているのか、調べてみてもさっぱりわかりません。
というか、こういう検証がフラットアースではほぼされていない。
自分のアタマで考えろーとか言ってるのに、なぜこんな基本的なことを考えないのだろう
まあいいか、今回は球体である理由の話だし



 
日本で太陽が見える方向と、オーストラリアで太陽の見える方向は、水平線。子午線に対してともに直角なので平行線です。この交点に太陽があるべきなのですが、平行線は数学的に交わらないです。
でも解はないのはおかしいのですから、宇宙的などんぶり勘定で太陽と各点を結んだ線が観測地で平行といえるような十分な遠方ということになります。
で、このはるかかなたにある太陽が赤道上のこの点の真上になければならない、これは平面だと絶対無理です。
 
ごたごたいってますがシンプルにいこう。要するに
地球の形を考えるのには太陽が日本とオーストラリアでは東に、そこから90度東の赤道上では真上にある。この条件を満たす図形を考えればいい。
そうすると、平面では無理なので
まあ、なんやかんや球形やろなあということになります。

そんだけ。簡単でショ。

でまあ、ここでは3点の太陽の位置に着目した話になっているが
こういった天体の運行が再現できるというのが球体の根拠なわけです。
地球が球体なのは様々な星や太陽の見え方が、球体じゃないとなりたたないから。であり
いわゆるフラットアースについては、再現や説明ができないので、ろくに検証すらされていないってのがホントのところです。

フラットなアレ

フラットアースモデル

フリーの正距方位図法があったので、フラットアースの支持者さんたちの言っていることってこういうことだよね、と現実に観測可能な情報を落とし込んで、かいてる途中で、

あ、これ無意味だわと気づいた。

ぼくの頭だと、彼らの言っていることははなからこういうことだし、こうでないとつじつまが合わない。じゃあ観測とモデルのずれをどう処理するかってことになるはずなんだが

 

そもそも彼らは、自分たちが主張していることと、この図がイコールで結べない。

彼らはもっと小さなパーツというか部分でしか見ていないからだ。

彼らのアタマの中では、観測地から太陽が東に見えたというならそれは東に太陽があるはずで、それでいて太陽はよどみなく24時間で赤道を一周するし12時間で半周する。それだけのことなのだ。

そうならないというのであれば、それは作図が悪い。正しい作図をすれば問題ない。

つじつまはあってるはずだから矛盾も理解できない。うーん。

 

フラットアースの人はなぜかわりと

自分の目で見て体感し、自分のアタマで考えろ

みたいなことを、上から目線でいってくるわけだけど

上の図なんてまさに自分の目で観測できて、考えるべきことのはずなんだが

まあ端から上っ面だけの詭弁で言ってるだけだから関係ないのか

めんどくさい

 

いや、うん。フラットアースはイカン気がする

誰がなにを信じようが知ったこっちゃないのですが

本来は、科学的合理性で否定できることなはずで、でもそれが今ではアメリカで社会的に有意な数が信じているとか聞くし

日本ではまだそういうのもブロックできてるのかなとは思うのだけれど

フラットアースがらみの発言や関連サイト、動画をみると、科学的素養が低下しているというか、それは大げさか。どちらの陣営もちょこちょこ思い違いをしている発言は散見される。

大丈夫なのかなあ、ヨノナカ。

 

今の世の中、特にSNSでは、自分が信じたい情報をかいつまんでいれば自分の世界は構築できるし、見たくないものはみなくていい。それを共有する人で固まっちゃえばなんとなくちいさな社会を構成できる。

でも、それは世界のすべてでも、世界の真実でもなんでもないんだよね

平面のアレの件

SLIMで宇宙関連を覗いていると

フラットな人をときどきみかけてしまう

トンでも論自体は嫌いではないのであってもいいと思っているのだが、昨今はなんというか空気が違うというか

球体派との議論もあるが、なんかこうね、なんだろう。

球体説側の人らも基本的なことを忘れている感が

 

そもそも、地球球体説っていうのは天体の運行を説明するためにピタゴラスイッチさんあたりが「あれ?地球って球じゃね?」とか言いだして出てきたわけじゃないっすか

天球説の根拠ってのは、星の見え方やね

なので、球体を否定しちゃうと、そのへんが説明できなくなっちゃうんですよ

 

平面説の人は、星は半球状の天蓋にあるプラズマだとか言ってるわけですが

それはそれとして、その半球に88の星座がどんなふうに描かれているのかってのは説明しないじゃないですか。ものすごく簡単で基礎的なことなのに。かいちゃうと矛盾があるの判ってるからね。彼らは自分たちの矛盾には徹底的に目をそむけます。

地球儀を展開して平面だと主張しているわけですが

その結果、南極点が外周となり誰が見てもおかしなことになっている

これについては、南緯66度以南はまるっとすべて捏造と主張することで、観測の意味をなくして、矛盾を隠蔽しているわけ(なんだこりゃ)

 

だが、地球が球なら天球も球。

けれど天球儀を開きにして歪めて補正し半球にはりつけたところでうまくいきません。

彼らの理屈では星が描かれた天蓋は北極の天頂に北極星があり、北極を中心に回転しているそうです。

なるほど、北の極点あたりはそれでごまかせそうですが、世界には古来より伝わる有名なナレーションがあり

天空にふたつの極星あり! すなわち北斗と南斗!」(CV:千葉繁

まあ、南極星はないんですが。赤道より南下すると、南の極点が見えてきて、日本ではなじみの薄い南の星座が見えてきます。

南の星座は南の極点周辺にまとまっているので、天球を開いて北極点から遠い位置、半球の地表付近にぐるっと配置するってわけにもいかないんすね。

しかもこれらは北極点周辺同様、南半球の夜にはどこからでも南に見え、天の南極を中心に回転するわけですから。彼らの世界観でどう説明つけるのやら。

でまあ無理なので彼らは天蓋に描かれた半球儀を絶対に出してきません

 

天球儀というのは地球儀よりはるかに古く、2500年前くらいからあったそうで、基本的には実際の天球と反転しています。そらそやな。目の前に見える星空をスケッチして、星を基準に円い台座にペタペタと貼り付けていったらそうなる。

ペタペタやってるうちに東からかいてない星が出てくるからまたかいてペタペタ

半年もすれば最初、西にあった星が東からのぼってくるようになるからそれで一周。

空欄は南半球に行ってペタペタすれば完成やね。

平面派がなにを言おうが、こんな単純でわかりやすい観測によって求められている天球儀なので、とりあえず天球は球なんです。反論するなら反証が必要。

そんでその天球儀を眺めながら、なんで時間と場所で見える星が変わるんやろって考えてなんやかんやした結論が地球が球体だって説ってわけ

実際、球体以外にこれら星の運行を説明することはできないです

平面派のひとらは、そもそも星がどのように配置されているのかという簡単なことすらできてないので、正直、真面目なお話にはならんですね。

端から真面目なお話でないトンでも論は大好きなんですけどね

 

なんだろうかこの空気がなあと考えてちょっと思ったのが

平面論には根拠がないんだなと思った。いろいろ調べてみたが、あるとすれば「体感できないから」ということで。それはそれで別に悪いわけではないと思う。それを根拠に仮説と検証で論じるならそれなりの論になるかもしれない

だが、彼らは持論の検証ではなく、まず球体説を否定しようとする。それによって持論を肯定しようとするんだな。他人を否定すれば自分の説が肯定されると思っているというか、そんなわきゃないんすけど

いまだ天蓋に88の星座が描かれないのはそのためか。そんなことには興味がないんだね、たぶん。

だが、それは球体説のほうも同じで、発言の中には間違っていることや誤解してる発言も散見する。もうちょっとこう、なんとかならんのですかね

 

アポロ計画の真相

なんか、陰謀説っぽいタイトルやね。
大したことはいわない。知ってる人は当たり前に知っている話だし。
そんな小ネタをこっそり。
 
月着陸に触れて、今でも月着陸が難しいのに、50年前の技術でできたのが不思議だという意見を見かけるが、確かにごもっともなのだ
 
今の技術でできないことは、基本的に50年前もできない。コンピュータの性能がファミコンレベルだしあきらかに大きなハン
なので、機械にやらせてもできないので
訓練された人間を連れて行ってやってもらったっていうのがアポロ計画です。実は。
宇宙飛行士は月着陸計画の最後の部品。人間を月に送り込むことに成功したというか、人間を送り込むことで月着陸に成功した。というのが実はアポロ計画の真相です。
50年前の月着陸では、人間が極めて重要な役割を担う宇宙船の一部だったわけです。
 
でも、これは別な見方を変えると当たり前だったりもする。
だって、人間より機械がやればうまくできるなら、自動車や飛行機もとっくに自動化されてるわけじゃないですか。宇宙船だって同じです。どれもそれなりに訓練された人間が操縦する必要がある。
で、時代の経過でいろんな技術が向上し、そろそろ無人でもできんじゃね?ってなってきてるのが現代。地球上でも自動車の自動運転。飛行機タイプのドローンとかちょこちょこ出てきて、
結局のところ、技術は地上と同じ水準で推移しているわけです
 
 
 
 

SLIMについての解説ぽい与太話とか

オトナなアレのあれこれ(毒毒)

というわけでオトナプリキュア4話です。

なんだかブンビーさんがプリキュア飲み会に参加しているという冗談みたいな絵面がでてきておもしろかったわけだが

うまいと思うのは、あの場にシロップがいなかったことだな。

最初は見たときは、なぜいないかちょっと不思議だった。いや、いた方がいいとは思わない。あの場に彼がいたら、さすがに情報量が多すぎる。だが、いた方が自然な流れではある。彼は今回の功労者なのだ。

で、シロップ不在の不自然さをなくすため、くるみにココへの手紙を依頼させる

さりげなく、うまい導線だなあと思う。

で、4話の最後になにやら険しい顔をしたココが枯れた湖のようなところで、シロップから手紙を受け取っているカットにつながるわけだ。

 

ところで、この場所が泉の郷だという意見があり、実は僕もその方が自然だなとは思っている。
だが、ネットでこの意見を見かけると、これを否定する意見もなぜかいちいち対でみられる。なんでかなあと。明らかに間違ったことやデマでない限り、想像や考察は自由なので別に否定せんでもいいんだけどなあ。
なにか、理由や根拠があって否定しているのか考えるが、よくわからない。それでパルミエの水場だと解釈されているようだ。
 
あの水場がどこなのかってのは、ストーリー構成の一部なので、そんなんは製作者が決めればいい聖域で正直どっちでもいいのだが
 
泉の郷のほうが自然だなと思ういくつかの理由はあるわけだ
例えば、これがスプラッシュスター組登場回であること。SSで水場が枯れるといえば、もう七つの泉なのである。泉の郷の、または世界の存続を揺るがすような大きな事件になる。
対してパルミエの環境の変化を表現したければ、別に水場が枯れるでなくてもいいのよ。地割れとか、木々の立ち枯れとか。むしろ植物が枯れるほうが、ローズガーデンの危機に直結するわけで、緊迫感は増す。
いまのところ、パルミエの水場が枯渇したところで、「あらあら大変ねえ、雨が降るといいですね」ですんでしまう。別にパルミエの環境が現実に影響するという話もなかったと思うし。
それで、パルミエの危機でわざわざ泉の郷と混同されそうな水脈枯渇という表現を選択する理由がとりあえずはない。
 
あと、ココがあそこにいることだな。
2話ではロイヤルガーデンとパルミエ城内が描かれ、シロップとナッツが健在であることが知らされるが、ココの姿がない。本編ではこれをメロン王国との交渉に出かけていると説明される。パルミエ国内にいないわけだ。
そんな彼が満を持して姿を見せるのが
パルミエ国内の水場調査。え?それでいいのん?てかいつ戻ってきたん?
戻ってきてたんなら顔くらい視聴者にみせろよー薄情やなってとこです。
 
ストーリーを作るのは製作者のお仕事です
のでこのシーンが「外遊先から帰ってくる途中、上空からたまたまパルミエの水場が枯れているのを見つけた」でも構わないんですよ。
この場所が泉の郷なら
「メロン王国で泉の郷に関する情報を聞いて、外遊中に立ち寄った泉が枯れているのを発見した」になる。
判明されている情報を手元に置いて、現時点でどっちの流れが自然かとか、どっちがココが国外にいるという話を生かせているか、ということだね。
 
もう一つ、ココがいまだ外遊中の方が都合がいい点があって、
予告を見る限り、ナッツが先行してプリキュアチームと合流しているらしい
ココなにしてんねや、はよこっちこいや薄情やな、ってことになりかねない
なんせあの場ではシロップと一緒なのだ。場所がパルミエの辺境であっても、そのまま彼に飛び乗ってこっちに来ればそんな大きなタイムラグが生じるとは思えない。
この出遅れも場所が国外で「外遊中で」なら、わりと一言で説明ができてしまう
 
さて、このへんがだいたいあれが泉の郷のほうが自然なんじゃないかと思わせる大まかな理由なのであるが
重ねて言うが、ストーリー構成を決めるのは制作さんなのであれがパルミエ国内であっても一向にかまわない。後出しでも理由を提示すれば、不自然なんてのはいくらでもうちけせる
だが、人様の想像をわざわざ否定する人はいったいどういう根拠や理由があってのことなのかよくわからないというわけだ。

 

さて、ここから先はあれが泉の郷だという仮定の上の妄想だが

あれが、泉の郷であれば、ストーリーの根幹に関わるし、見えてくるものもある。なんせ泉の水が枯れるのは世界の危機に直結しかねないのだ。

あー、シロップさん。あのヒトあんな顔して実はチートもちですので

実際のとこは、あの場所が泉の郷だろうと、パルミエ王国であろうと、あの場で飛び乗ってこっちきちゃえば、大きな時間的ラグが生じるわけでもないのですよ。

それでも、ココが出遅れたというのが事実なら

泉の郷でやることがあった、ってことですわ。

 

ところで、ミルキーローズさんが変身の際にタイムフラワーを消費した描写がなかったため、SS組が変身するかしないかというのが話題になっているわけですが

そういうのも制作さんが決めればいいことなので、どっちがいいとも思いません。

世間では、否定的な意見もありまして、SS組は昔の姿にもどったところで変身できるわけではないので、それもまったくもってごもっともなのです。

SS組は咲と舞、そして泉の郷のフラッピとチョッピがいて初めて変身が可能なわけで

シリーズの最終回では妖精が泉の郷に帰ったため、普段は変身できないのです。咲と舞はコドモにもどれば変身できるというわけではない。

じゃあ変身できないかといえば、妖精勢は頻繁に遊びに来てるので変身できたりできなかったり。もっとも普段は変身する理由がないので変身しないんですけどね。

初期のオールスターズでは、咲たちが妖精と再会する描写や、妖精がそばにいる理由をきちんと劇中で拾って描いていたりします。

でも、最近のASではこのへんは省略されがち。ショウガナイネ

なので、SS組が変身するにしても、タイムフラワーで変身!当時の彼女らのスペックを象徴するものとして妖精はアイテム扱いで顕現する。でも一向にかまわないですし

妖精との再会を描いてくれるなら、それはそれで丁寧だと思うし、拾ってくれてありがたいとも思うわけです。

 

もし、製作がSS組を変身させるつもりで

変身するための必要十分条件をきちんと満たすつもりなら、劇中ではココのタイムラグが重要になる。

フィーリア女王に泉の枯渇について報告、相談、交渉。泉の郷側から咲舞へ対応についての依頼、フラッピ、チョッピの派遣。その仲介役をココに依頼。

出遅れたココがSSの妖精勢を引き連れてやってくるなら大金星。遅れてかけつけても薄情とはなりませんわな

 

まあこの辺はいまある材料から組み立てられる、適当なストーリーラインをでっち上げたもので、ぜんぜんこの通りになるとも思ってないのですが

プリキュアが泉を復活させるために奮闘するというのがSSなんだから、SS2期ともいえるようなお話になるんじゃないかとか、フィーリア王女が顔出しするかもという内容になっててわりとSS勢向けのお話

今、5話の予告みかえしたらこっちくるココがなんか不穏な表情だったのでなんだかなあと

所詮、本編の筋書きは公式が選択するもの。とりあえずここまでは十分期待に応える内容なので、今後どう転がすかは楽しみにしています。

 

オトナなアレのあれこれ(毒)

オトナはプリキュアになれない

というのは、前回考察で僕がさんざんぱら言ってたことですが

それは1話でキュアモ(変身アイテム)がなくなったって話から考え、りんちゃんさん同様、とりあえずオトナになったからという解しか得られなかったからで、物語上で他に意味が提示されればそんなもんあっさりのりかえます。

でも、「なくなった」というのは意味があるべきことで、2話で変身するときにもう一度手にしてるわけですが、そもそも無くなったことに意味がないなら最初から取り上げなきゃいいんです。

また、「オトナだから」という理由が正解だとしても、それは「キボウノチカラ」というお話でのことで、シリーズの中のルールに過ぎないはずなんで

それもガチガチのものでもなく、お話のかじ取りによって「大人の夢のみかた」みたいな話をするなら、今後、オトナのままプリキュアになる。みたいな振り方もできます

どういうお話に持っていくかは、ストーリー構成、製作者の聖域。

なので、オトナはプリキュアになれない。それがプリキュア。とかいうつもりはぜんぜんないのです

だって、現役プリキュアのアゲハさんがオトナでプリキュアやってますもんねえ

 

SNS上ではオトナプリキュアで中学生になるのを

プリキュアは変身すると全盛期(中学生)の姿になる」という話が、まるでプリキュア全体のルールのように言われたりして

若返ったキュアフラワー、成長するキュアマジェスティー、キュアエースが例に挙げられてたりする。

考察や想像は自由ですので、そういう説も誰も積極的に反証はしないのですが

それが界隈で事実のように語られるのは困りもの。

じゃあ、変身後も小学生のキュアミューズはどうなんだ?ってのが真っ先に挙げられるのですが、この説では、ミューズは例外のようです。なるほど

でも例外というならほかにもあります。

キュアペコリンもこどものままの変身ですし、敵の攻撃(?)で子供になったスマイルプリキュアも変身しても子供のままでしたね。

ハグっとプリキュア36話に登場したプリアラ勢は成人し社会人もいます。敵の攻撃(またか)で中学生の姿にされ驚いていますが、持参した変身アイテムで躊躇なく変身します。彼女たちにはオトナのまま変身できない理由がないんですね。

ハグっとといえば最終回では世界中の老若男女がプリキュアに変身していますし

各作品における「伝説のプリキュア」は大人の姿で描かれることは多いです。

 

公式から特別そういう示唆があったわけでもないですし

プリキュアは変身の際に全盛期の姿に戻る」はいまのところ「僕の考えたプリキュアの設定」に過ぎないですよ。

それがSNS上でプリキュアの常識のように語られてしまうところが、たぶん僕としては面白くはないです。

キボウノチカラというお話は、すでに示唆されている範囲で、オトナとコドモ、夢と時間みたいなのがテーマであるっぽいですし、「オトナはプリキュアになれない」というのはその表現のために設けられた設定で、変身して子供の姿なのもそのための表現であるべきです。

オトナで変身はエロくてNHKに許されなかったと揶揄されたりもしていますが

ネタとして言ってるならいいんですが、GOGOの衣装はデザインもかっこいいし東映さんならNHKに許される範囲で普通にかっこよくオトナプリキュアをかくことも当たり前に可能です。

オトナでムチムチぱつぱつなプリキュアが見たかったという意見も判らなくはないですが「だったら自分でかけばいいじゃないか」と言える僕もズルい。

ちなみにムチムチドリームを描いているひとが、みんな5の衣装を選んでいるのが、ですよねーって感じで面白いw

 

前回、わざわざやらなくていいのに実証してみせたように、1話をみれば2話でキュアドリームが登場するというのはちょっと考えればわかるんですよ。

別に判らなかった人は、気づかなかっただけなので、どうということはないんですが

2話の反応をみるとなんだかみんな口をそろえて驚いているようで

同じようなことしか言わないってのは、僕にとってはすでにおもしろくない。

 

オトナで社会に直面して、現実で暗い話でツレーって発言もそうです

3話みてまだ言う。どこが?って感じです

かれんさんは駆け出しのお医者さんで、3話は単に仕事や患者との距離感がまだ判らなかったってハナシです。呼び出しがあるかもとお酒が飲めないってのは変な話で、そんなこと言ったらお医者さんお酒飲めなくなるじゃん

今回のお話で、そういう悩みが少し解決して、少しかれんさんが成長したので、イイハナシダナーってことで

オトナってのはそういう小さな問題を乗り越えていくもので、現実の闇でもなんでもないです

なんだか「オトナプリキュアは現実の闇と戦うつらい話に違いない」的な思い込みが先行してるようで、ちゃんとお話をみてくださいって感じです。

たまに、世間様とほんとうに同じものを見ているのか心配になります。

 

こまちさんについて

こまちさんは判りやすいというか判りづらいというか

「書きたいものが判らない」とかいっていますが

それは見方を変えてみればとてもわかりやすく間違っているので

書きたいものを好きに書くというのはアマチュアの特権なんすよね。じゃあなろうで書いてろって話ですw

こまちさんはすでに賞をとって、つまり実力も認められ、それで今後も小説家であり続けたいなら、売れるものを書く。書けるものを書く。というのが正解なんです。

実際に、書きたくないものでも書いていれば、表現力に厚みが生まれるでしょうし

自分が本当にかきたいものに気づけるかもしれない。でもそれはたぶん、今ではない。

もう少しプリキュアよりの穏やかな表現をするなら、自分にとっても理想的な小説、いいもの、最高のものを書かなきゃならないと思うから動けなくなるので

でも、現実はそういう理想的なものだけで作られているわけではないし、理想でないものにも目を向け、その意味や価値を見つけ、書けるものを書くんだということに気づければ、あの人も一歩踏み出せるかもしれません

でも、そのへんはたぶん、プリキュアの脚本が一番わかってますね。だってプロですもの。常に傑作を!とか思ってたら一年持たないし、作品上の制約もある。緩急つけるから傑作も生まれると。

こまちさんが「書きたいもの」にこだわっているのは、たぶんうららさんとの約束に気負いがあるからで、この二人はセットでエピソードが描かれるのかもしれません

どちらにせよ、この二人のお悩みは、表現者としてのものですので、どんなにつらい話であっても「現実の闇」とやらとはあきらかに別です。